技術的な質問回答集 FAQ

錦正工業について

会社の沿革について

これまでの会社沿革ついて教えてください。

当社は、1928年(昭和3年)栃木県大田原市にて農業機械の製造・修理などを行う「町の鉄工所」として営業を開始いたしました。その後、1951年(昭和26年)に「鋳物」の製造を始めるべく、埼玉県川口市で鋳造工場を立ち上げました。
 1964年(昭和39年)改組し、それまでの永森製作所から「錦正工業株式会社」として新たなスタートをきります。よく社名の由来を聞かれるのですが、祖父は私が生まれる前に、父は私が3歳のときに亡くなっており、社名の由来やそのときの想いなどを直接聞いていないのです。「正しいことをして故郷に錦を飾ろう」と思ったかどうかはわかりませんが、この直後、製造拠点を川口市から創業の地である大田原へ移転しています。
 その後、1971年(昭和46年)には現在の拠点である那須塩原市(当時西那須野町)に移転し、ここで鋳造・機械加工・塗装までを同一拠点内で行う一貫生産体制を確立させました。
 1973年(昭和48年)には、当時の急激な工業発展に欠かせなかった重要な動力伝達部品であるVプーリーの規格をKKKグリーンクラスとして標準化し、約300種類をカタログラインナップし、念願の自社ブランド品として製造・販売をスタートさせます。
 祖父亡き後、後を継いだ父は高度経済成長の波にのり、増え続ける受注に対応するべく、大量の金属を効率的に溶解する3t低周波誘導炉、高品質な鋳型を量産する高速高圧自動造型機、オートローダー付無人旋盤加工ラインなど、次々と設備増強を進めました。
 そんな中、当社にとって重大な事件が起きます。後を継いだばかりの父が交通事故で急逝してしまったのです。1977年(昭和52年)私が3歳のときでした。
 実務は専務・工場長・営業部長といった番頭さん達が、製造は熟練の職人さんたちがいましたので、すぐには大きな問題にはなりませんでした。しかし、明治生まれの祖母は借金が大嫌い。戦略的な事業展開や新たな設備のために借り入れをしてまで投資するという考えは無く、父が残してくれた設備を大事に使い、今と同じ製品を、今取引のあるお客様のために製造するという経営方針が20年以上と続くことになりました。
 この間に機械設計上の動力伝達方法も変化し、競合他社は新しい規格のプーリーやモーター直結ためのカップリング製品の開発をすすめるなか、同じVプーリーを販売し続ける当社の売上は、徐々に徐々に下がっていきました。計画的な新卒採用も止まってしまい、定年退職による自然減と売上減少の縮小均衡のなかで、最盛期には60名ほどいた社員も、私が入社したときには24名で平均年齢53歳という典型的な老衰型企業になっていました。「とんでもない会社に入ってしまった。」というのが入社当時の率直な感想でした。
 しかし今思えば、あれだけ積極投資を進めた父がもしそのまま経営をしていたら、ひょっとしてバブル期に余計なことをして痛い目にあっていたのではないかと。祖母の堅実な方針があったからこそ、バブル崩壊も乗り越え、これだけの土地・建物・設備・そして熟練スタッフを、私が入社するまでギリギリ繋いで残してくれたのだと、現在は前向きに考え素直に感謝できるようになりました。
 2000年(平成12年)に入社した私は、まず大きな方針転換を行いました。長い間同じものを同じ工法で作り続けてきた工場に、新しい刺激と技術革新、なによりチャレンジする技術者を育てるためにも新しい製品を作らなくては、と考えました。しかし設計や開発といった人材を育て新しい自社製品を生み出すには時間がかかる。まずは自社製品オンリーのプライドを捨て、他メーカー様の受託生産の仕事も積極的に取り入れて行こうと。そして受託生産の仕事をこなしながら計画的に設備更新、新技術・新設備の導入、設計開発人材の教育をすすめていき、次の自社製品を世に出すための準備をしようと。
営業戦略は「全工程自社内による一貫生産」
鋳造・機械加工・表面処理・アセンブリを同一拠点内で行うことでお客様に提供できるメリットはとても大きく、これまで鋳物素材と機械加工を別々の会社に手配されていた機械装置メーカー様からの受託生産案件がどんどん増えていきました。
 2005年(平成18年)には従来の自社製品の売上を抜き、いま現在では自社製品の3倍を売り上げるまでに成長しました。
 またこの間に、新卒採用を復活させ、熟練スタッフからの技術伝承、生産技術・設計開発人材の教育、5SやTPMなどの社内小集団活動にも積極的に取り組んできました。その結果、社員平均年齢は30代に、明るく前向きな人材が揃ってきました。

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